死刑囚 最期の言葉 生の声 秋葉原 無差別殺人 加藤智大

秋葉原で 2トントラックで赤信号を無視して交差点に突入、通行人を次々とはねた上、トラックから降りた男は、奇声を上げながら、ぶつかった通行人や警察官らを殺傷能力の高い両刃ダガーナイフで刺し17人が 次々とその場に崩れ落ちていった。警部補は夢中で追いかけ、後から「止まれ!」と声を張り上げる、男が振り返った。拳銃を構えて「撃つぞ」と警告! 殉職の文字が脳裏をよぎる。25歳、加藤智大 秋葉原無差別殺傷事件の犯人。ナイフを路上に落として座り込み、すすり泣きを始めた。彼が生まれてきた「壮絶な生育環境」とは、一体どのようなものだったのか?

2008年6月8日に秋葉原で発生した 通り魔殺傷事件。生々しい事件として記憶に残っている方は多いのではないでしょうか・・・

17名が2トントラックで はねられたり、ナイフで刺され、うち7名が死亡。

事件当日は日曜日で、秋葉原の中央通りは歩行者天国で、買い物客や観光客でごった返している中での犯行だった。事件直後に多くの人々が逃げ惑い、また負傷者が横た周りでは血の海になるなど、事件現場は白昼の惨劇・戦場の様相を呈していた。「逮捕されるまで人を襲い続けた執拗さ、年齢や性別を問わず、倒れた人を助けようとした人や逃げ惑う人にまで、容赦なく刺し続けた卑劣さ、確実に命を奪い去るため身体の枢要部(すうようぶ)を狙って 力強く突き刺し続けた残忍さは、人間性のかけらも感じられない悪魔の所業だと云われた。犯人の加藤は2015年に死刑判決が確定し、2022年に東京拘置所で死刑を執行された。

何故、加藤はこのような悲惨な事件を 起こしてしまったのか?

生い立ちなのか? 境遇、家庭、社会なのか?…。無差別に周囲に向けられた強い殺意は、一体どこから生まれたのか?

孤立した人物が 他人を傷つける事件は、秋葉原の事件後もあとを絶たない。こうした事件を再び起こさないために、社会に何ができるのか?加藤の言葉をひたすら紐解きその真実に近づいていきましょう。

目次

加藤の生い立ち・人物像

加藤は1982年9月28日[7] – 青森県で生まれ、労働金庫に勤める父親と専業主婦の母親の長男で 弟がいる4人家族でした。小学6年では陸上部に在籍し、県大会に出場。中学3年では合唱コンクールでは指揮者を務めたこともあった。

加藤の祖母は 幼い頃のあの子は率直ないい子だったんです。でも、両親がスパルタでね。孫の加藤がニコニコしていると父親が『締まりのない顔をするな!』と怒鳴る。はたで見て『なんでそんなに怒るの?』と思うこともあった。特に母親のほうが教育熱心で、『部活なんてやらなくていいから 勉強しなさい』と常に加藤を叱していたと話す。 

結論・加藤智大の 核心部分から 解説していきましょう。

加藤の手記や供述から、

高校時代に教育熱心だった母親の期待に背いて北大の進学をやめたことや、勤務先を突然退職することを繰り返してきたことは、

「言いたいことを言葉にできず行動で示してしまった。それが自分のパターンだった」と述べています。

更に こうした自身の性格は「小さいころの母の育て方が影響していると思う」と説明した。小中学校時代、「九九が言えない」と母親から風呂に沈められたり、殴られたり怖かった。沈められているときに笑っていて、苦しくなるまで沈められていた。そして、加藤が耐え切れずに泣くと、口にタオルを詰められて、その上からガムテープを貼られたりした。

私は、泣くことは許されなかった。

「泣くたびにスタンプをカードに押されて、それが10個たまると屋根裏部屋に閉じ込められた」さらに家族の食卓では会話が全くなく、私は食べるのが遅いので、食べきれなかったのを新聞の折り込みチラシにぶちまけられて、食べさせられました。

自宅に友人を呼ぶことを禁じられ、

満点じゃなきゃ平手打ち、 

見て見ぬふりのゲスな父、もしくは両親二人掛かりのリンチ!

小学校の頃から大学は北海道大工学部と決められていて、 

学校で作成した作文や読書感想文は母親が検閲して教師受けする内容に修正し、無理やり書かされた。 

帰りたくないそんな家・・・

こうした母親の「干渉」は、細かく、多岐にわたり「高校は自分の希望を変更し、母親の母校 県内一の進学校に進学」。 ガールフレンドができたが「あの子と付き合うのは止めなさいと、交際を禁止され 泣く泣く別れた。など、ひとつひとつの行動に「レール」が敷かれてて そして加藤も母親の要求に、愚直に答えようと頑張ってきた。

 加藤は事件後、獄中で、被害者に向けての謝罪文で、自らの「子供時代」について、こう吐露した。

〈私は小さな頃から「いい子」を演じてきました。意識してやっているわけではなく、それが当たり前でした。今ではそれがおかしなことで あることはわかっていますが、「いい子を演じない自分」を意識しないと、本当の自分が出てこない、という倒錯した状態になっています〉

 母親の期待を一身に、入学した高校だったが、成績は伸び悩み 遠く、岐阜県内の自動車専門の短大だった。卒業後はアルバイトや派遣でつないだ。

母親は 自分が絶対的に正しいと考えている人で、母親の価値観が全ての基準でした。その基準を外れると母親から怒られるわけですが、それに対して 子供達が説明することは許されませんでした。 

だから私も無意識に母と同じ考え方になっていました。誰かが私に対して、私の価値観では 間違ったことをしてくると、私は怒りました。私は言いたいことを 言わないでコミュニケーションを取らずに 「自分のネット上の 掲示板を荒らした人々に、間違っていることを認識させて 痛みを与える」という、秋葉原 通り魔事件の動機につながったのだと供述しました。どういうことかというと・・・

 

短大を卒業し社会人へ

2005年2月 – 職場の人間関係の不満に対する抗議の表明として無断欠勤し、警備会社を退職。

2006年4月 – 職場の人間関係の不満に対する抗議の表明として無断欠勤し、派遣会社を退職。

2007年9月 ネットの掲示板の投稿者と面会するため 2週間の旅行休暇を会社に申請するが、会社から却下されたことに対する抗議の表明として無断欠勤し、運送会社を退職。借金の返済をしないまま青森を去る。

2008年2月に掲示板で「不細工なせいで孤独な男」という人物を演じたところ 反応が良かったので、以後「不細工スレの主」として自虐的な書き込みを続けて行く。一方で加藤に成りすました 荒らしも掲示板に現れるようになる。

やがて実生活で仕事や友人を失ったことから 社会との接点が掲示板のみになり、孤立を恐れて掲示板にしがみつくようになった。

ネット掲示板を荒らされたり、本人になりすました書き込みをされたりするなどの嫌がらせを やめてもらうために『事件を起こす』と警告してきたが、なくならなかった。世の中に 報道されるような大事件を起こせば相手に伝わると思い、決意する。

加藤は事件当日、掲示板タイトルを「秋葉原で人を殺します」へ、内容を「車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います!みんなさようなら」と書き換えて犯行予告を行い、事件を起こしました。

動機

加藤死刑囚は 被告人質問で、動機を説明した。「現実は建前社会で 掲示板は本音社会。とても重要 他に代わるものはなかった」と話した。掲示板は「私にとって帰る場所、自分が自分でいられる場所だった。掲示板上の人間関係は家族同然の人間関係だった」と 供述した。

まとめ

当たり前ですが、虐待などされていて 壮絶な成育歴があるからといって、誰もが事件を起こすわけではありません。

加藤元死刑囚の生い立ちや境遇に 共感する部分、他人事にとらえられないと感じた方もいらっしゃると思います。親にあまりかわいがられなかったり、同じだ。。と共感している人や子供たちもいると思います。

地元の信用金庫の要職にあった父親は退職を余儀なくされ、自宅には脅迫や嫌がらせの電話が相次ぎ、マスコミの姿に怯えながら身を潜めて暮らした。

一方、罪の意識にさいなまれた母親は、心のバランスを崩して精神科に入院。事件直後、加藤の弟は こう言う。虐待の証言が飛び交い、『親のせいでこうなった』という風潮が印象づけられました。でも、親のせいなら、僕も事件を起こすはず。だけど僕はそんなことはしない。たしかに両親への恨みや憎しみはありますが、親のせいではないということを証明したかった。両親を擁護するために、弟は取材に協力してきた。

 事件を起こした長男は、拘置所で死刑を望み、自分の犯罪を冷静に分析する著書を執筆する一方、弟は 家族 互いに思う気持ちがありながらも、すれ違いを続け、兄より先にみずから命を絶った。

最後に非常に印象深い言葉を残します。

加藤は被害者宛ての謝罪文の中で、「死刑」について、

〈死刑は5分間の絞首だと聞いています。実際には、1分もあれば死ねると思います。皆様に与えた苦痛と比べると、あまりに釣り合いませんが、それでも、皆様から奪った命、人生、幸せの重さを感じながら刑を受けようと思っています〉

加藤智大は、優しい人だったのだろう・・・と思う。 それが どこかでボタンのかけ違いが起きた。優しいが故に、親に逆らえなかった。悲しい事件です。

この記事が 現在親である人、これから親になる人の、何かを考えるきっかけになれば 幸いです。

https://youtu.be/r6wRCkdU55g

 

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