独裁者 最期の言葉 アドルフ・ヒトラーが逝く時に思ったこととは?

独裁者・権力者が死ぬ間際、何を思って逝ったのか?最期に絞り出した言葉から、そのことを知りたいと思いませんか?

独裁者や権力を握った者は、悪の権化と言われることもありますが、個人的にはその行動力・バイタリティ・思想や精神構造に興味深いものを感じます。本日は独裁者・権力を握った者が蛮行をするまでに、どのような生い立ちでどんな極悪を行い死ぬ間際・往生際の最期に一体何を言ったのか・・?お伝えしていきたいと思います。

アルドルフ・ヒトラー 独裁者というと、この方の名前と顔を思い浮かぶ方も多いと思います。アルドルフ・ヒトラー ナチス総統、20世紀最悪の独裁者と言われナチズムの名の下、強烈で恐ろしい独裁体制を敷いてきた独裁者でした。アドルフ・ヒトラーは1889年4月20日にオーストリア=ハンガリー帝国、現在のオーストリアにあたるブラウナウ・アム・インで生まれました。ヒトラーの父アロイス・ヒトラーは税関で働いていた後、醸造所の従業員、そして最終的には養豚業者として働きました。ヒトラーが14歳の時、父が亡くなりました。彼は一家の長男として生まれ、彼の兄弟姉妹の多くは幼少期に死亡しています。ヒトラーはリンツやパッシャウなどで教育を受けましたが、学業にはあまり興味を示さなかったとされています。若い頃、ヒトラーは美術家になることを志望していました。しかしウィーンの美術アカデミーの入学試験に2回不合格し、芸術家としての夢を諦めざるを得ませんでした。

アルドルフ・ヒトラーの台頭

第一次世界大戦が勃発するとヒトラーはドイツ軍に志願し従軍しました。彼は兵士としてフランスとベルギーで戦い戦傷を負ったこともありました。戦後ヒトラーはドイツに戻り政治活動を始めました。彼はナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)に加入し党内で昇進していきました。1923年、ヒトラーはナチ党とともにマーチ・オン・ローマと呼ばれる行進を行い、政府に対して圧力をかけました。この行動が成功しドイツの元々あった政権を握っていた精力を押し退けてヒトラーはナチ党、つまりナチスが勢いをましてきてヒトラーがナチ党を指導する地位に就きました。

そのころ・第一次世界大戦の後のころドイツでは国民の不満が高まり今までの政府への失望感が強くなっていました。なぜ政府への不満が高まっていたのか?というと、第一次世界大戦による国力の低下や戦争に勝った国へ払う賠償金。そして1929年に世界を襲った『世界大恐慌』が原因でした。その不信感に乗っかるようにして共産党やナチスのような過激な政党が勢いを増しナチ党を率いるヒトラーがドイツ民族の優秀さを説き、失った自信と誇りを取り戻す政策を掲げました。

いわゆる『強いドイツ』です

『強いドイツ』は、国民たちにとって希望の光であり、とても魅力的だったんです。ヒトラーは強烈なカリスマとリーダーシップの資質を備えていました。彼の演説能力・情熱的な表現力・そして大衆を引き込む力は、多くの支持者を魅了しました。その演説は皆さんもテレビなどで見たことがあると思いますが、非常に情熱的で感情豊かな演説で、彼の言葉は強調され、しばしば激情的なトーンで述べられたり、聴衆の感情を揺さぶり沸いたものでした。挙げ句の果てにヒトラーに全権を付与するという法律を可決させ、ナチ党以外の全ての政党を解散させヒトラー率いるナチスは 独裁体制を手に入れたのです。

さらにヒトラーは『第一次世界大戦の敗北原因はユダヤ人にある』というデマをも利用して簡単にドイツを掌握した。ヒトラーは独裁者としての地位を固め1933年にドイツ国内で政権を握りました。その後、彼はナチス・ドイツの指導者として第二次世界大戦の勃発や多くの蛮行に関与しました。ホロコーストによって殺害されたユダヤ人と他民族や障害者なども対象に大量虐殺を実施しました。これは絶滅収容所でのガス室や集中収容所での労働といった形で行われ600万人の罪なき人をガス室に送り込み容赦なく殺しました。

何故?どんな考え方でここまで冷酷なことができるのか?

あの凶行の根源となったものは何なんだろう?と皆さん 思いませんか?ヒトラーの過酷な生い立ちなのか?とかも考えましたが、実は非常に興味深い思想が要因となっているのです。ご紹介していきましょう。ナチス・ヒトラーには ある思想があり、どんな思想かというと

『レーベンスラウム』

地理学者のフリードリヒ・ラッセルや地政学者・軍人でもあったハウスホーファーの主張する理論をヒトラーが取り入れたことが始まりです。どんな理論かというとレーベンスラウムを日本語にすると

生存圏

領土を広げて同一民族が生活できる空間を造ることでドイツが裕福になるという考え方です。現実、各々の領土には他の民族が住んでいてナチス・ヒトラーはは【生存圏・レーベンスラウム】に更に優生学と軍国主義を併せて過激化しました。

優生学とは、命に優劣をつけて選別をする考え方➡︎こちらの民族の方が、あちらの民族より優れている!具体的にいうとヒトラーは『私たちアーリア人こそが1番の民族』と決めてナチが考える劣っている民族を粛清していったのです。ヨーロッパ中のユダヤ人を抹殺し領土を広げて東ヨーロッパへ進出。その土地を優秀なアーリア人で埋め尽くす!これこそがレーベンスラウムだ!という考え方。この思想がユダヤ人虐殺へと繋がっていったと言われました。

ヒトラーの裏では常に盲信的で従順な部下たちの存在があった。その中でも最も信頼を寄せていた1人であるヒムラーに裏切られ秘密裏に降伏交渉を進められていたことにヒトラーは気づく。これは敗戦と同時にナチスドイツの終わりを意味していたということをヒトラーは悟り、この知らせの直後、末期の準備を始めました。

これを聞いて織田信長の本能寺の変を思い出しました。みなさん、信頼していた部下、明智光秀が謀反を起こし、京都本能寺に滞在する主君・織田信長を襲撃し信長の時代を終わらせた裏切りです。信長の謀反で命を落とした歴史です。

話をヒトラーに戻しましょう

ヒトラーは自らの遺書を口頭で残し、後継を指名して愛人であるエヴァブラウンと結婚式をあげ、毒薬の効果を試すために愛犬に飲ませ死んだのを確認し、妻になったばかりのエヴァは毒を飲み、ヒトラーは拳銃で自殺した。

ヒトラー最期の言葉

『ゲッペルス 俺と妻の死体がよく焼けたかどうか?確かめるのを忘れるなよ』

ナチズムという狂った妄想の中に生きた20世紀最悪の悪夢・独裁者でした。

本日のまとめ

ヒトラーは死ぬ間際、何を思って逝ったのか?いかに人生を振り返ったのか?後悔したのか?満足していたのか? それとも、そんなことも考える暇すらもなかったのか?不意打ちであったり覚悟をしたのか?それとも生き伸びることに固執したのか?自ら進んで死んだのか?

私は日本人なので 平家物語の冒頭を思い出しました。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり 

沙羅双樹の花の色 

盛者必衰の理(ことわり)をあらはす

奢れる(おごれる)人も久(ひさし)からず 

ただ春の夜の夢のごとし

猛き者(たけきもの)も遂にはほろびぬ

ひとへに風の前の塵(ちり)に同じ

祇園精舎の鐘の音は、「諸行無常」つまりこの世のすべては絶えず変化していくものだという響きが含まれていて、沙羅双樹の花の色はどんなに勢い盛んな者も必ず衰えるという道理を示してます。世に栄えて得意になっている者がいてもその栄華は長く続くものではなく、まるで覚めやすい春の夜の夢のようだ。勢いが盛んな者も結局は滅亡してしまうような風の前の塵と同じであると・・どんなに栄華を極めたとしても必ず終わりがくる、この世の無常を説いた言葉を思い出します。

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