死後49日まで魂は家にいるという話を聞いたことはありませんか?故人の魂のゆくえは宗教や科学の世界、スピリチュアルな世界などにおいて捉え方が様々です。
確かではないからこそ、死後もそこにとどまっていると信じたい気持ちも強くなるのかもしれません。死後の魂のゆくえについて仏教とキリスト教の考え方をもとにまとめましたのでご紹介します。
魂とは
魂とは、人間が肉体を失っても存在するもの。次の命を授かるときにまたその器に入るという説が一般的でしょうか。魂は、人間だけでなく、犬や猫、生きとし生けるものすべてに魂がいると唱える人もいます。
人間の思考は、大脳皮質で司られていて、人が亡くなると頭に血液が流れなくなるので、そのまま意識も朽ち果てるため、死んだ人は呼びかけには答えない。
しかし、何もなくなってしまうのは寂しいので、その悲しみを埋めるために、「心の中にはずっと生きている、見守ってくれている」と思うために魂が存在するという話をつくりだしたとも考えられています。
魂が存在する根拠はなく、死後の世界もないと否定する声とは反対に、魂があるという説を科学的に証明しようとする研究もあるほど、人の魂への興味は尽きません。
今のところ、魂については、概念が先行し、科学的裏付けは取れていないのが現状といったところでしょう。
では、魂について、仏教やキリスト教においてはどのように考えられているかご紹介します。
仏教においての49日までの魂のゆくえ
49日というのは仏教で語られるものです。四十九日法要までの期間中、遺族は故人を偲び、徳を積むと将来その人は極楽に行けるとされています。
では、故人の魂はこの49日間どこにあるのでしょうか?
宗派によって解釈は様々で、すでに成仏している場合もあれば現世にとどまっているとする場合もあります。
死後49日までに受ける審判
49日の間、仏教では魂は行き先を決める裁判を受けるとされています。7日ごとに閻魔大王によって裁かれるとされている7つの裁判とそれに関連する法要について説明します。
初七日
死後7日目が初七日で最初の試練です。初七日が行われる時期に、魂は三途の川にたどり着くといわれています。この三途の川では、殺生の有無が調べられます。他殺や自殺をした人は三途の川を渡れません。
渡れる人の中でも徳を積んでいれば橋で渡り、少し悪いことをしたのであれば流れが穏やかな浅瀬を渡り、極悪人は荒波の中を渡ることになります。
二七日
死後14日目が二七日(ふたなのか)です。魂は三途の川を渡り切ったあとに、着ぐるみをはがされ、木の枝のしなり具合で盗みをしたかどうか、罪の重さを図るとされています。
三七日
死後21日目が三七日(みなのか)です。魂が不倫や浮気、連れ添った相手を踏みにじるような不貞行為を行っていなかったかどうかを調べます。
閻魔大王をはじめ冥界の王たちは魂のどんな些細な罪も見逃しません。魂が少しでも罪を犯していれば、化け猫が乳首をかみちぎり、蛇が首を締めあげます。
四七日
死後28日目が四七日(よなのか)です。ここで魂が問われるのは生前に嘘をついたかどうかです。
生きていれば大なり小なり嘘をつくでしょう。ここで大事なのは相手を深く傷つける嘘や、自分が長期間後悔する嘘をついていないかです。
秤に魂を一人ひとり乗せて、嘘の罪の重さを測るとされています。ここで重罪人と判断されたら地獄に落とされます。
五七日
死後35日目が五七日(いつなのか)です。ここでは閻魔大王の審理を受け、輪廻転生を認めるかどうか判断が下されます。
死者が鏡や水晶の前に立つと、生前のあらゆる悪行と功徳が見えてきます。映し出されたことに関して嘘をつくと釘抜きで舌を抜かれます。ここで輪廻転生をするか、別の道に行くか決まります。
六七日
死後42日目が六七日(むなのか)です。ここでも生前の罪の裁きは続きますが、同時に生まれ変わった世界で正しく修業を積めば来世で極楽に行けることを解いてくれるといわれています。
また、輪廻転生する際の条件が決まります。この後紹介する六道の行き先次第で来世の幸福度なども見えてきます。
七七日
死後49日目が七七日(なななのか)です。ここで魂の進む先が決まり、あの世に旅立つとされています。
こうして6つの鳥居のうちのいずれかを通って、罪によって行き先に導かれ次の世界に旅立つとされています。
これで魂の行く末はひと段落つきます。そして、このタイミングは遺族からの応援が大きな力です。その応援というのが四十九日法要なのです。
49日以降に向かう「六道」
49日間の審判を終え、魂は六道と呼ばれる6通りの道に向かいます。この道を歩むことで魂が鍛えられ、極楽浄土を目指せます。その六道に関して説明します。
天道
1つ目は天道です。天上界、天界とも呼ばれます。生前に善い行いをした人が行く世界で、人間より優れている天人が住むとされています。ただ、極楽浄土とは別物です。
苦しみなどつらいことが全くない世界ではありません。
人道
2つ目は人道(人間道)です。これはいま私たちが暮らす世界を指します。六道の中で仏教に触れられ、輪廻転生を目指せる世界です。
人道には四苦八苦と呼ばれる苦しみが存在しています。人間は生まれたら死が待っていますし、生きることそのものもつらいことだと考えます。
徐々に老けて病気にも悩まされる、愛する者との別れや気の合わない人との出会い……。様々な苦労を経験する世界です。
修羅道
3つ目は修羅道です。これは須弥山(しゅみせん)の北側、大きな海底に阿修羅が住む世界です。
ここでは常に雷鳴が鳴り響き、争いや戦いが絶えず、苦しみや怒りも絶えません。負傷して死を迎えても戦いを続けてはまた死ぬということを繰り返す羽目になります。
修羅道に行くのは生前に他人を蹴落として自分の地位を得た人や、醜い争いをした人とされています。
畜生道
4つ目は畜生道です。ここで言う畜生は動物や鳥、虫のことです。
この世界では人間ではなく犬や豚、ニワトリなど数多くの動物のいずれかに生まれ変わります。弱肉強食の世界なので、強いものから襲われる恐怖と常に戦いながら生きながらえる必要があります。
畜生道に行くのは非業の死を迎えた人や、恨みを訴えようとした人です。
餓鬼道
5つ目は餓鬼道です。ここは鬼に生まれ変わる世界です。
ガリガリに痩せ、骨と皮だけになった餓鬼という鬼が住んでいて、常に飢えと渇きに苦しみます。餓鬼道に行く人は生前自己中心的に生きた人とされています。
地獄道
6つ目は地獄道です。ここは六道の中で最も深い苦しみを味わう世界です。
ここは罪を犯した者が行く世界です。人を殺めたなら斧で切り裂かれ続けるなど、どんな苦しみを受けるかは生前の罪の重さ次第で決まります。
キリスト教においての49日の魂のゆくえ
キリスト教における死後の魂のゆくえについて解説します。
プロテスタントとカトリックで少し異なりますが、どちらでも死後1か月がひとつの区切りです。プロテスタントでは死後1か月が昇天記念日となっており、四十九日法要のような集会を実施します。
一方カトリックでは死後30日に行う追悼ミサで一区切りつき、昇天記念日は死後1年後に実施しています。
キリスト教における死後の世界は、簡単に言うと天国と地獄に分かれています。天国は悲しみや苦しみがない明るい世界で、神から発せられる光で夜も来ない世界と言われています。
一方地獄は真逆の世界です。天国に行くか地獄に行くかは神の存在を信じたかどうかで決まります。仏教のように審判を受けるわけではありません。
まとめ
仏教では、魂が生前に行ったことに対する審判を、死後49日まで行うとされています。7日ごとに生前の行いで罪となるものがないか判断を下し六道と呼ばれる道に向かいます。
人間の社会もその六道のひとつにすぎない世界で、魂は死後もずっと存在し、極楽浄土に向かうために六道への転生を繰り返すというのが仏教の考え方です。
また49日という概念は、仏教による解釈が主になるため、キリスト教の考え方には当てはまらないことがわかりました。
冒頭でお話しした死後49日までは魂が家にいるというのは、仏教での解釈になりますが、次の輪廻転生する先の六道が決まる間、現世で審判を受けながら、出発前の準備をしている魂のことなのかもしれません。