死刑囚 最期の朝 生の声・・・宅間 守

死刑執行 直前、宅間は『タバコとジュースくれや!』と乱暴に要求。むしろ何も恐れていないかのように、いつも通りの高圧的な態度を見せた。

そして、刑務官に告げた、最後に残した言葉は驚くべきものでした。

『ありがとうって、妻に伝えてください』──それが、宅間の最期の生の声。

宅間守、5番目の妻へ、静かな 感謝の別れの言葉でした。

この記事は戦後の日本で、子どもを狙った犯罪の中でも最悪の事件・・・衝撃的な事件でした。多くの方々の記憶にあると思いますが、若い方はあまり知られていないかもしれません。2001年6月8日に発生した、大阪教育大学附属池田小学校に出刃包丁を持って乱入し、次々と児童に襲いかかり8名を殺害、15名の児童や教職員が重軽傷を負った。

逮捕後、犯人は 動機について「エリート校のインテリの子をたくさん殺せば 死刑になると思った」と供述した。日本中を震撼させた池田小 児童殺傷事件、その男こそ宅間守である。

なぜ彼はこのような恐ろしい犯罪を起こしたのか?彼をこのような“怪物”に変えたのは何なのか?生い立ち、境遇、家庭、社会なのか?…。

宅間の言葉をひたすら紐解き、その真実に近づいていきましょう。

目次

宅間守 家系・生い立ち

人はいつか死ぬと仕事柄、誰よりも分かっていて、どの命も かけがえのないものだと日々考えさせられる職業でもあります。しかし、この事件を考えると、絶望・・・という言葉が出てきてしまうのです。なぜ彼はこのような恐ろしい犯罪を起こしたのか?

宅間守元死刑囚の生い立ちから、5回の結婚、死刑執行までを時系列にお話していきます。

宅間の祖父は、宅間の父親が17歳になった年の春に亡くなり、宅間の父親は尋常小学校で学歴を終え、宅間家一家の大黒柱として、幼い兄弟を含む6人の家族を養ってきた宅間の父は『誰にも迷惑をかけない』というのは、大きな私のテーマであり 極めて平凡な頑固親父で、人生の勝利者にはなり得なかったが、自分の人生にプライドを持っていました。

また宅間の父親は、酒を好み、酔った際には、家族全員に対して暴力を振るったり、家族の前で刃物を振り回し、これが原因で母親は別居をしていたことがあります。宅間自身も父親から虐待を受けて育ちました。宅間は暴力をふるう父親を憎悪し、寝ている間に包丁で刺殺してやろうと思ったこともあると述懐しています。 

宅間の母親は、家事、育児が苦手であり、家事のほとんどは父親が担当し、一種のネグレクト状態であったと云われています。母乳をあげることも嫌がっていて、事件後に宅間のマンションから押収されたノートに、小学生時代、名門の大阪教育大附属池田中学校を目指していて、願書を一人で取りに行き勉強するようになる。そしてお母さんに願書をもらって来たことと、受験が保護者同伴なので、そのことを伝えると「そんなもん通るはずがないのに受けるだけ無駄や」「お前なんか産まれてこなければよかった」と罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせられ、

 

父親からは「教育大付属中に入る子は小さなころから、家庭教師を付けとる。うちは機械工やから違うんだぞ」と諭され、そして僕はあきらめたと書かれていました。宅間は幼いころから「高学歴・高収入のエリート」に対する屈折した羨望・嫉妬を抱いていて、その夢を最初に打ち砕いたのが、このような池田中への進学断念だったとされています。この時の、やり場のない挫折感を、暴力で発散してきたのだろうかとも言われています。

社会人となる

宅間が高校2年の時、教師に暴行して退学になり、それが転機となり、幼いころから憧れていた航空自衛隊に入隊した。宅間家、最初にして最後の慶事・祝い事だったと云われています。その後1983年(昭和58年)1月に、1年強で除隊処分を受けている。

除隊の理由について、鑑定書は「家出した少女を下宿させ、性交渉した」ために懲罰を受けたと記述している。

宅間には7歳歳上の兄が一人いたが、破綻した弟の存在に心を病み、1999年3月の42歳の時に首吊りまたは頸動脈を出刃包丁で切り自殺している。

1984年11月21日、マンション管理会社に勤務していたときには、家賃の集金と称して、大阪市東淀川区の女性の部屋に上がり込み、顔面を数回殴りつけ、首を絞めるなどして強姦する事件を起こしました。

事件後、被害者の女性が警察に告訴したことを察知した宅間は、12月12日、母親をともない精神科を受診。「幻聴が聞こえる。だれかに陥れられる気がする」などと医師に言い、病院側は、当初は不安神経症との診断を下したが、宅間の虚偽の供述を信じ、のちに「統合失調症」と診断書や警察の照会への回答に記載している。

また宅間は、ダンプやトラックの運転手を務めていた際、二件の危険運転致死事故を起こしたと、後の精神鑑定で証言している。山奥で産業廃棄物をダンプで運ぶ仕事をしていた時に、前の車に対して煽り(あおり)運転をしたところ、下りカーブで急ブレーキを踏みスピンしたダンプが対向のトラックと衝突し、運転手が数日後に死亡した。

この件では「相手の車が割って入って来た」と嘘をついて、それ以上捜査されることはなかった。また首都高速の付近でトラックの運転をしていた際に、乗用車に対して煽り運転を繰り返しているうちに相手の車が側壁に衝突し、運転手が死亡した。すぐにその場を去ったため、事件として露見することはなかったという。

初犯の強姦事件を除き、15回もの逮捕歴があったが、心神喪失を理由に不起訴処分になっている。

2003年暮れのことだった。宅間は電撃結婚し、5回目の結婚となる。世間をアッと言わせ、世の中には本当に奇特な人がいるものだと多くの人が驚いたことだと思います。ずっと支援者の一人として、主任弁護人を通じて宅間に手紙を送っていたA子さん。死刑囚は原則として弁護士か家族としか接見や文通が許可されないため、婚姻を決意したようだ。

「結婚した理由を尋ねられ、彼女は、“宅間さんに贖罪(しょくざい)の気持ちを持たせて、彼の魂を救済したいから”と言っていました。

彼女は宅間にとって最後を託せる相手だった。ただ宅間を救いたいと言う一心のA子さんに、心を許すこととなります。 独房で 生まれて初めて 心つながる家族を持てたのかもしれません。

弁護人もまた泣きながら宅間に語りかける

最終弁論では、弁護人もまた、泣きながら宅間に語りかけた。

「君は生まれながらにして殺人鬼だったのではない。君が大きく間違ったのはあのとき、あの時点に『鬼』と化したことだ」

判決の日、頭を角刈りにした宅間被告は、遺族の座る傍聴席をにらむようにしながら入廷。「申し訳ないとの思いはない」と開き直り、ついに謝罪の言葉を発しなかった宅間被告。裁判長が判決をいい渡そうとした瞬間、用意してきた三枚の紙をかざして、「どうせ死刑になるんや。最後にいわしてくれや」と大声で発言を要求。「認められない」とする裁判長に、「三枚程度や」「最後にいわせてや」と繰り返しました。

 裁判長が「法廷の秩序維持」で退廷を命じると、宅間は傍聴席に向かって遺族の名前を挙げ、罵声をあびせました。

 開廷からわずか三分ほどで被告がいなくなった法廷で、裁判長は「被告人を死刑に処する」と主文を読み上げました。被告不在のままの死刑判決言い渡しとなりました。

まとめ

裁判では遺族の感情をえぐるような暴言を繰り返し、反省や謝罪の言葉は最後までありませんでした。その後、死刑判決が確定し、平成16年9月14日に刑が執行されました。犯罪史上、類を見ないこの痛ましい事件は、社会全体に衝撃を与えるとともに、学校の安全神話を一挙に崩壊させました。

宅間・元死刑囚はモンスターではなく、実在した人間です。決して許してはいけません。

子供の頃の宅間に、親やまた地域、誰か1人でも、愛情を持って関わっている大人がいれば、または、あなたは大切な存在なんだよと、一人でも感じさせてくれる大人がいれば、このような事件は防げたのかもしれないとされています。

大人の責任として高い危機管理意識を具現化し、二度と惨劇を繰り返すことない、未来ある子どもたちが安心して生きていける、安全で明るい学校環境・社会づくりに向けて進んでいくことを心から願います。

宅間守・元死刑囚が、公判で言った言葉が忘れられません。

「門が閉まっていたら、乗り越えてまで入ろうとは思わなかった」と。校門を閉めておく、たったそれだけのことさえなされていれば、子どもたちの命が奪われずに済んだかと思うと、悔しくてなりません。

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