死刑囚 最期の朝 生の声 宮崎勤

「勤(つとむ)の部屋を見てくれればわかる」宮崎勤(みやざき つとむ) 逮捕直後、両親は息子の無実を訴えた。しかし宮崎勤は 死刑執行の直前、『あのビデオ・・まだ途中なのに・・・』と最期まで ビデオが気掛かりで 被害者への謝罪は皆無だった。幼女ばかり4人を殺害し 遺体を切断し 骨を食し 犯行声明に 幼女の遺骨を自宅へ送りつけた 日本犯罪史上 類を見ない異常性犯罪者。

 浮かび上がってきたのは 宮崎家の歪んだ家族関係であった。

目次

東京・埼玉連続 幼女誘拐 殺人事件とは?宮崎勤

昭和から平成にかけて 日本中を震撼させた「東京・埼玉連続 幼女誘拐 殺人事件」が1988年8月22日に発生、それから4人の幼い少女の命を奪った 最悪の殺人鬼”と云われ、当時、東京・埼玉の幼い子供達を持つ親たちを震撼させた悲惨な事件でした。

宮崎勤とは一体何者だったのか?部屋には大量のビデオ、大量の雑誌と漫画。“今田勇子”の告白文。

当時のワイドショーは戦後の犯罪史上、類を見ないオタク劇場型犯罪を大々的に報じ、公判中 宮崎は

「犯行は覚めない夢の中でやった」「ネズミ人間が現れた」「犯行は死んだ祖父を復活させるための儀式」だった。「少女の遺体を焼いて食べた」などの発言をしたため 複数回、精神鑑定が行われました。

何故 宮崎はこのような悲惨な事件を起こしてしまったのか?

生い立ちなのか? 境遇、家庭、社会なのか?…。

宮崎の言葉をひたすら紐解き、その真実に近づいていきましょう。

昭和と平成の 明らかな事件の違いとは?

人はいつか死ぬと 仕事柄、誰よりも分かっていて、どの命も かけがえのないものだと日々、考えさせられる職業でもありますが、この事件は 気持ち悪く 猟奇的です。

事件発覚当時、こう思った方 いらっしゃいませんか。

昔の事件と この平成に入っての事件の特質が、明らかに違うと・・・ 

昭和の事件は加害者と被害者の間には、借金に追われていたり、強い恨みを抱いていたり、加害者と被害者の間に「理由」があったわけです。

ところが、平成以降に起きた事件には 加害者と被害者の間に 明確なつながりがないのです

つまり 何の落ち度もない人が ただ たまたま そこにいた だけ・・・   

通りを歩いていただけ、遊んでいただけで、突然事件に巻き込まれてしまう 被害に遭ってしまう理解出来ない無差別殺人が増えました。

宮崎の家系・生い立ち

宮崎勤は1962年8月21日、東京都 現在のあきる野市で、地域紙 『秋川新聞』を発行していた印刷会社を経営する、裕福な一家の長男として生まれました。

曽祖父が村会議員、祖父が町会議員を務めるなど 地元の名士であった 家族は祖父、祖母、両親、妹2人の7人である。宮崎の祖父は引っ込み思案な勤を連れて歩き、かわいがっていた。

勤が、欲しいと言ったものは何でも買い与え また 公判で祖父の骨を食べる行為は祖父を蘇生(そせい)させる儀式だったと言い 祖父の死から3か月後 勤にスイッチが入り 猟奇的な犯行がスタートしました やはり、勤にとっての祖父は大きな支えであったとされています。

その祖父の代では 宮崎家は 絹織物業を営み、成功したが、最盛期には女性従業員が十数名働いていて 勤の祖父は 女工さんに手を付け、孕(はら)ませた子が何人もいました。

おばあさんは、おじいさんの悪口を 近所に触れ回り、いがみ合う二人の仲は 村でも有名で、家の中では そのことから喧嘩が絶えなく、また、勤のお父さんもPTA会長をやっていた時、役員の女性と噂になっていて、奥さんと喧嘩が絶えなく、その度に 奥さんに殴る蹴るの暴力を震っていて、家庭を顧みない無責任な父でした。

母は、常に世間体を優先し、姑と折り合いが悪く、日々 勤の子育てを廻って陰湿な対立をし、母親は 勤に愛情を注ぐ精神的余裕や時間が無かったとされています。

勤は 生まれつき 手首を回せず、手のひらを上に向けられない「両側先天性橈尺骨癒合症」という身体障害がありました

そのため、幼稚園で お遊戯などのポーズもできず、周りから からかわれても 幼稚園の先生は 何も対応しなかったため 勉は「非常に辛かった」と供述しています

両親は共働きで印刷業が忙しく、勤が生まれてから 子守りをさせるために、知的障害の男性従業員を 住み込みで雇い入れ、この男性と祖父が幼少期の勤の面倒をみていました。

勤の小学生時代は成績は上位で 高校は明治大学付属中野高等学校へ入学。東京工芸大学短期大学部に進学し、卒業後、勤は家業を手伝い始めるが、簡単な手伝いのみだった。

東京・埼玉連続 幼女誘拐 殺人事件とは?

⚫️第1の最初の事件。1988年8月22日 Aちゃん(当時4歳)行方不明。

当時、4歳のAちゃんが連れ去られた。日向峰(ひゅうがみね)の山林の中で、Aちゃんをいきなり押し倒し 絞殺。翌年にはAちゃんの殺害現場から遺骨を持ち帰り、自宅前の畑で燃やしてから骨を拾い、Aちゃんの半ズボンなどの写真とともに 段ボール箱に入れて、両親が暮らしていた入間ビレジの玄関の前に置いた。マスコミによって、送られてきたAちゃんの歯が別人のものだという報道がなされると、今田勇子(いまだゆうこ)名で犯行声明文を送りつけました。

⚫️1988年10月3日 Bちゃん(当時7歳)行方不明。

⚫️1988年12月9日 Cちゃん(当時4歳)行方不明。

12月15日、埼玉県名 山林から全裸で 手足を縛られたCちゃんの遺体を発見。

⚫️1989年6月6日 江東区の団地に住むDちゃん(当時5歳)が行方不明。

6月11日、飯能市内にある霊園内のトイレで、バラバラ死体となって発見。

当時は それでも犯人は捕まらず。

幼い娘を持つ親たちは、いつわが子が同じ目に遭うのかと、不安と恐怖に苛まれていました。

逮捕された男

一連の事件を起こしてから、10ヶ月が過ぎていたが、捜査の手は宮崎には及ばなかった。さらに幼女を物色していた宮崎は1989年7月、八王子市内の公園で姉妹を見つけ、6才の妹を公園近くの林道に連れ込み、全裸にして撮影しているところを 幼女の父親に見つかり、宮崎が「もうしませんから警察には言わないでください!」と言ったが 取り押さえ、強制わいせつの現行犯で逮捕された。後に自供によって、一連の 猟奇的な事件の数々が明るみに出、宮﨑を取り押さえた被害者の父親は、当時のマスコミの取材で、後日それが 連続殺人事件の犯人だと知って、愕としたと・・・話していました。

裁判 死刑

裁判では一貫して罪の意識を自覚していないような発言をし、関係者をやりきれない思いに突き落としました。宮崎は幼女を誘拐して 山の中へ連れていく時、その幼女との関わりを「懐かしい甘い世界」と表現し、いつもその「懐かしい甘い世界」である「自分が自分であった子どもの頃」に戻りたいと言い、そして誘拐する際に『人に見られたとき、自分が〇〇ちゃんを連れているという感じを与えないようにした」と・・・供述。

どういうことかというと、歩道橋の階段を上り始めた女児の姿を目にした宮崎は、同じ階段ではなく、反対側の階段から上っていった。そして歩道橋の上で女児に近づくと、目の前に腰をかがめ、笑顔で「涼しいところに行かないか」と声をかけた。しかし無理強いせず、「今来た方でいいんだよ」と言ってから、一人で先に歩道橋を下りていった。

歩道橋を反対側から上ることで、偶然の出会いを装い、腰をかがめて目線を同じ高さにすることで 親近感を抱かせ、先を歩くことで警戒心を解きながら、追従心を呼び起こす、何と巧みな戦略だと思いませんか?

実は、子どもが誘拐された事件のほとんどは、だまされて 連れ去られるケースなんです。

強引に子どもの手を引いて連れ去るような、愚かなことはしないのです。

あの事件依頼、地域の安全・見守りは盛んになりましたが「不審者に気をつけて」では、今でも 宮崎勤事件は防げておりません。

実態を知らない人の方が多く、子どもの安全対策や防犯教育は、現実とはかけ離れていて、小さなお子様を持つ親御さん、地域のみなさん、この現実を踏まえた上で 対策して欲しいと思います。

そして宮崎は、父親が自身に愛情をかけてくれなかったことへの憎悪の思いを綴り、自分がこのような事件を起こした原因について「親の愛情が欠けていた」と自己分析していた。

宮崎勤と宅間守について、あえて似ているところを言えば、権威主義的な父親に嫌悪感を強く抱いている点ではないでしょうか。

勤には姉妹2人がいました。姉は結婚間近であったが破談となり、妹も専門学校を退学に追い込まれた。親戚兄弟も会社を辞職しました。

勤の逮捕後、父親が発行していた新聞は休刊となり、父親は逮捕から5年後、多摩川に架かる橋から身投げしました。

公判では、弁護人から父親の自殺に関する感想を聞かれた際も「罰が当たったと思った」と述べていました。

彼の行動がいかに無責任で、多くの人を巻き込むものだったかを考えると、深い悲劇 強い憤りや無念さを感じざるを得ません。

SNSへのシェアはこちらから
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!