最愛の人が命を奪われ、突然いなくなってしまったら あなたは どうしますか?麻原彰晃は どうやって高学歴の若者を次々と引き込み、あの男にすべてを捧げたのか?
どうやって 巨大な教団を築き上げ 未曾有の社会犯罪へと暴走してしまったのか?
かつて「神」と崇められ、国家をも震撼させた男。しかし、彼の人生の終焉は、信者すら知らない・・想像を超える ヘタレで 滑稽なものだった。
「チクショー… やめろ…」
死刑執行の瞬間、彼は叫び、そして どんな表情を浮かべたのか?
信者すら知らない、”絶対者”の最期の姿とは――
これは 日本犯罪史上最も衝撃的な事件、オウム真理教と麻原彰晃の”最後”に迫るドキュメント。封印された真実の扉を開きます

国家をも震撼(しんかん)させた事件
いま、若い世代は 麻原彰晃(松本智津夫)の顔を見ても、誰なのか?分からない人が増えているそうです。しかし、昭和を生きた私たちにとって、彼の名前は決して忘れることのできない”戦慄の象徴” です。かつて「ポア・殺害による魂の救済」を掲げながら、未曾有のテロ・殺人事件を次々と引き起こし、日本を震撼させたカルト教団・オウム真理教。凶悪事件は多々ありますが 抜粋してご紹介します。

① 坂本堤弁護士一家殺害事件(1989年11月4日)
オウムの危険性を調査し、脱会者を支援していた弁護士・坂本さん(当時33歳)と、妻、長男(1歳)の一家が教団幹部によって殺害された。目的は教団にとって危険な存在である坂本弁護士を抹殺し、オウムへの批判を封じるため。

② 松本サリン事件(1994年6月27日)
長野県松本市の住宅街に、オウムが猛毒サリンを散布し、8人死亡・600人以上が負傷。犯行の動機は、オウムに不利な裁判を担当していた裁判官を排除するため。日本初の化学兵器テロとして大きな衝撃を与えたました。

③地下鉄サリン事件(1995年3月20日)
東京の地下鉄(丸ノ内線・日比谷線・千代田線)通勤ラッシュアワー時を狙って オウム信者がサリンを散布。乗客・駅員ら13人死亡、6,000人以上が重軽傷。警察の強制捜査が迫っていたため、混乱を引き起こすことで阻止しようという教祖・麻原の計画。
日本国内で最悪なテロ事件、世界にも大きな衝撃を与えました。

麻原の生い立ち
1955年、熊本県八代市の貧しい家庭に生まれ、7人兄弟の一人で 生まれつき左目が失明、右目も弱視だった。盲学校で育つが、わずかに視力があったため、周囲の全盲の生徒を支配するような態度を取ることがあったとされ、この頃から権力欲や支配欲が芽生えていた可能性があると云われています。高校卒業後、東大受験に失敗。その後、漢方薬や整体を学び、インチキ治療まがいの商売をするが、違法薬の販売で摘発され、詐欺罪で有罪判決を受ける。
この頃から宗教や超能力、ヨガに強い関心を持ち 1980年代の精神世界・超能力ブームに乗じて、カリスマ的指導者として振る舞うようになった。初期のオウム真理教は、ヨガ・瞑想・精神修行を掲げ、高学歴の若者を取り込みながら拡大。巧みな話術とカリスマ性で信者を操り、「麻原は絶対的な存在」として崇拝されるようになり、テロ・殺人を実行するカルト集団へと変貌していった。
何故?高学歴の若者が こぞって入信したのか?
1990年代、日本はバブル崩壊後の不況に突入し、その時代を経験された方は、当時を思い出していらっしゃる方も多いと思います。若者たちは将来への漠然とした不安を抱えていて、特に高学歴のエリート層は、「いい大学に入れば成功できる」という価値観の中で育ち競争に勝ち抜いてきたが、いざ社会に出ると、待っていたのは 就職難や企業社会の歯車としての現実・・・
「自分の努力は何のためだったのか?」
「本当にこのまま 生きていくのが正解なのか?」
そんな虚無感や閉塞感を抱えた若者たちに、オウム真理教は「真理の探求」「精神修行」「悟り」という新たな目標を提示した。宗教と科学を融合させた教義は、知的好奇心を刺激し
「選ばれた者だけが到達できる高次の世界」という言葉は、エリート意識を相当くすぐったと云われています。更に 麻原は巧みな話術で、
「君たちは特別だ」
「この世界を救う使命がある」と囁いた。
社会の現実に疑問を抱いていた彼らは、ここなら本当に自分の存在価値がある!と信じ、次々と教団に引き寄せられていったと云われています。1960年代〜70年代の 学生運動を主導したのも 1972年2月19日発生の長野県軽井沢町の浅間山荘事件も、高学歴の学生が多かったですね・・・
麻原彰晃 逮捕の瞬間
地下鉄サリン事件のわずか2日後(1995年3月22日)、警視庁は山梨県上九一色村(かみくいしきむら) オウム・サティアンへ強制捜査を決定。警察は当初30分ほどで麻原を逮捕できると考えていました。なぜなら、すでに逮捕されていた教団幹部 遠藤元死刑囚から第6サティアンの1階の天井裏に隠し部屋があり、麻原が潜伏しているという情報を得ていたからです。
しかし、検挙班は情報を元に捜索したが 麻原はどこを探しても見つかりませんでした。1995年5月16日 警察が捜索を開始してから55日目に教団施設第6サティアン の地下室・隠し部屋で、松本元死刑囚は発見・逮捕されました。頭にヘッドギアをつけた松本元死刑囚が 高さ50cm 縦3m 横1mの、まるで棺桶のような狭いスペースの隠し部屋で、うつ伏せになっていて、捜査員が松本元死刑刑囚を抱えて部屋から出しました。麻原を発見した当時 新人、牛島刑事が手錠をかけました。

牛島刑事は 国家転覆をも狙った教祖と 呼ばれた巨漢の男は、ブルブルと震えていたと当時を振り返ります。汗だくで衰弱していて抱えられた捜査員に
『重くてすいませ ん』と謝り 抵抗する ことなく、うなだれていたそうです。そして、護送直前、信者が見ている外へと 連れ出した途端に 俺は教祖だ!みたいに胸を張り威厳を示したそうです。
さっきまで震えていたのに外に 一歩出たら、こんな急に態度を変えたそうです。信者の前で見せた “絶対者”としての姿を貫こうとした最後の虚勢だったのかもしれません。
こんな男に人生を狂わされ、命を奪われた人々のことを思うと、悔しさとやりきれなさが今でも込み上げ、やりきれない思いに襲われます。
死刑当日 最期の言葉
拘置所では 松本元死刑囚は 入浴も備え付けのトイレを使うことも一人では出来ず、オムツをつけ オムツ交換・着替えなど すべて刑務官に手伝ってもらっていた。
刑務官の日報によると、麻原が呟いている言葉は、何かよく分からない梵語のようであったり、
「ショーコー、ショーコー」と自らの名前を連呼して歌ったりと一橋文哉(いちはし ふみや)ジャーナリストは『オウム真理教事件とは何だったのか?』という著書で書いています。
2018年7月6日 朝7時30分過ぎ、麻原の独居房の出入り口にある窓ごしに、いつもと違う刑務官が「出房だ」と声をかけた。大抵の死刑囚はこの見慣れぬ顔と声で 自分の運命を悟り、顔面を蒼白にして うなだれながら刑務官の指示に従うか、大声を出したり暴れたりして抵抗するかだが、麻原は二人の刑務官に両腕を抱えられ、

「チクショー!やめろー」と叫びながら 独居房から出ると、3人の警備担当者に身体を押されるようにし、両側に独居房が並ぶ死刑囚舎房の通路を歩き、長く薄暗い渡り廊下を通って、何の表示も出ていない部屋の前に到着。そして、待機していた刑務官二人の手で扉が開けられると、その前には分厚いカーテンがかかった狭い通路があり、カーテンに沿って先に進むと 急な階段が現れ、上で別の刑務官ら大勢の人が待っている気配が伝わってくる・・・ここまで来ると、この先に何があるのか察する死刑囚が多いのだが、麻原はブツブツと小声で何か言うだけで、四人の刑務官に押されるように階段を上がり、麻原はブルッと身体を震わせた。階段を上がった横にある部屋には、5人の男たちが待っていた。
「松本智津夫君。残念だが、法務大臣から刑の執行命令が来た。お別れだ」

私も正直驚きましたが、かつて「神」と称された男の最期は、なんとも情けない姿だったそうです。人はどれだけ簡単に洗脳され、狂気に支配されるのかという、恐ろしい現実です。信者だった人々も、かつては普通の若者だった。私たちが「自分は大丈夫」と思うほど、同じ過ちが繰り返されるのかもしれません。
最も忘れてはならないのは、今なお苦しみ続ける被害者と遺族の存在で、あの日、地下鉄に乗っていただけで 家族を奪われ、今もなお、毒ガスの後遺症に苦しみ、自由に呼吸することすらできない人々がいます。私たちがこの事件を風化させないことが 少しでも彼らの痛みに寄り添うことにつながるのではないかと・・・
日本を震撼させたこの事件を、若者にも知ってもらいたいと思います。決して忘れてはならない そして、2度と同じ悲劇を繰り返してはならないと 私は強く思います。