【風葬 鳥葬 お葬式】日本も人の遺体をさらし風化を待つ葬送文化があった

かつて日本でも、通常の火葬や土葬とは異なる葬送方法として、風に晒す(さらす)ことで遺体を消滅させる「風葬」という独特な葬送文化が存在しました。この風葬は、遺体を自然の中に置いて風化させる方法であり、芥川龍之介の『羅生門』では、羅生門の上に遺体が遺棄された様子が描かれていたり、『八幡宮童訓』には、野捨てにされた風葬の遺体を犬などが食べる様が書かれていたり、山の麓や川原などに死骸、白骨が捨てられることは、日本でも珍しいことではありませんでした。その概要や背景について面白いエピソードがございます。ご紹介していきましょう。

風葬・鳥葬とは、、、?

風葬は、亡くなった人の遺体を自然の中に放置し、風によって朽ち果てるまでそのままにする葬送方法です。この方法は、死者を弔うためにさまざまな方法が存在する中で、一つの選択肢として行われていました。日本においては、遺体に服を着せたまま、木の上や洞窟内に安置したり、特定の場所に遺体を置いて風に晒したりしました。もちろん獣や鳥が啄むこともありました。

風葬・鳥葬の歴史

風葬は、日本の歴史の中で一時期、広く行われていました。特に平安時代には、京都などで遺体を野ざらしにして自然に戻す風習がありました。その当時、遺体をどのように処理するかは大きな問題であり、都市部での葬儀としては風葬が行われていました。木の枝に遺体をかけて鳥が食べやすいように処理して風葬にしたとのことで、そこから「鳥辺野」(とりべの)という地名になったと言われています。 また、 平安時代の権力者である藤原道長が荼毘に付したのも、鳥辺野である。同じ時代に紫式部が執筆した王朝絵巻『源氏物語』の中で、桐壺の更衣や葵の上、夕顔などが葬送されるのも、またこの地、鳥辺野だった。「野」の付く地名の多くは、実は、 風葬の地だったと伝えられています。

風葬は、遺体を放置することで自然に戻すという考え方が基になっていました。特に平安時代では、都市内に遺体を埋葬することが難しかったことから、都市部から少し離れた場所での風葬が一般的でした。また、仏教が説く「西方浄土」への願いも関与しており、遺体を自然に帰すことで極楽浄土への移行を願う意味も込められていたとされています。

しかし、時が経つにつれて、風葬は廃れていきました。近代以降、都市の発展や衛生上の理由から、火葬が一般的な葬送方法として広まっていったことが影響しています。風葬の地域的な特性や民間信仰の減少も、風葬の廃れる一因とされています。

世界の風葬・鳥葬事情

風葬は日本だけでなく、世界中で行われていた歴史的な葬送方法です。モンゴルでのお話です。19世紀後半、探検家ニコライ・プルジェヴァリスキーは、モンゴルについて、こう記していました。死後、ご遺体を犬や鳥の餌にして「その食べられた時間が短ければ短かったほど、その人は、徳が高かった」というのです。死体を鳥や犬の餌として提供し、その食べられる速さが故人の徳を示すという風習が存在しました。また、チベットやインドネシアなどでも風葬の一形態が行われている地域があります。

まとめ

風葬は、亡くなった人を火葬や土葬ではなく、自然に戻すために風に晒す葬送方法です。歴史的な背景、火葬料に費用がかかったことや地域的な条件などが風葬を選択する要因となりました。日本でも平安時代に風葬が行われ、特に都市部では広く行われていましたが、近代以降の社会変化により廃れていきました。世界中でも風葬の痕跡や風習が見られ、各地の文化や信仰に根ざした方法として存在していました。

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